今日、林業は大変で、「このままだと、どうなるのだろう」と、よく聞かれますが、「こうなる」と予測することは、とてもできない。ニッチもサッチもならんときには、焦れば焦るほど分からないようになるもので、そこで「最初の出発点に還ると何でもなく分かることが多い」ということを聞いているので、林業とは、どんなものか、という林業経営の本質を吉野林業の歴史から探ってみたいと思う。
吉野林業のはじまり
吉野川流域、とくに上流には古くから豊かな原生林があり、吉野川という便利な流送路を利用して近世初期から商品として積極的に木材が搬出されるようになり、豊臣秀吉の大阪城や伏見城をはじめ寺社仏閣の造営に吉野材が使われ、元和6年(1620)に大阪に初めて木材市場が開設された。原生林の減少にともない、やがて人工造林が開始されるが、本格的植林が始まったのは元禄から享保(1700年頃)で、原生林の伐り跡に伐採地を焼き、雑穀を3~5年間栽培してからスギを植えた。(主食の生産と地拵え費を節約するため)
焼き畑では間作をするため疎植にならざるを得ず、この疎植地の初期の成長は焼き畑を行わない林地よりも成長がよく、ほとんど下刈の必要がなかった。このような吉野の疎植人工林は自然条件に助けられて、やがて大径木となり、搬出に便利な場所にあるため木材業者は、きそって購入し、大阪、和歌山の商人、地主、木材業者、の目を引きつけた。
外部資本の乗出しと山守制度
吉野材に引きつけられた彼らは、立木の年期買いや、林地の買い入れに乗り出してくる。
外部の山林所有者は、これらの山林の保護管理を地元の信頼のおける有力者に依頼した。これが山守制度である。
山守への信頼度が大きくなってくると、山林所有者は山守に依存しきって、その収益のみに関心を持つようになった。遠隔地の所有者は尚更である。
山林所有者で現場のことは、ほとんど分からない者も多く、山守は伐木販売額の一定の割合を山守賃として受取る権利があったことや、山守が伐出請負を兼ねるときは間伐材を安く払い下げてもらえる権利があったので、山林の保護管理に努力すると同時に、委託された植林、伐出、管理などの経費の切り詰めを可能な限り行って自己の収入の増大をはかることができた。それが密植、多間伐、良質材の生産という形になって現在に至っている。
密植、多間伐、良質材生産
吉野では、このころになると、植林の場合、「面積当たり何本」ではなくて、「植付個所数と植付本数」で、とりきめられている(例えば、「10万場」)。そのため、 山守は、とにかく決められた本数だけ植えればよい。
山守は常識的な本数当たりの面積を計上して、植栽費を所有者に請求する。しかし、山守は実際は、その本数を、より少ない面積に植える。すなわち密植である。
そうすることにより、地拵費と植付人件費が少なくてすみ、その分だけ山守の収益になる。密植が結果として、完満、通直、無節の良質材を生み出すことになった。
また、彼らは間伐を繰り返すことにより、定期的な収入を得ることができる。すなわち多間伐による山守の利益が見られるのである。この間伐材を、より高く売るためスギ洗丸太とかタルキという銘木の加工生産を始めた。
山林地主の林地集積と小規模育林業の挫折
吉野地方の山林地主の林地集積過程は、面積的には明治以降に、とくに激しくなった。重要なことは買手側が高利貸資本の立場にたっていたことである。
この地方の農業は自然条件の悪さと耕地の極端な零細性で、極めて不振であった。そのため主食の大半は村外からの供給によらねばならなかった。時には飢饉のために多くの餓死者を出すこともあった。
このように農業によって生活を維持しながら森林育成、林業を営んでいく条件に欠けていた。だから不時の出費に備えての財産備蓄としての植林地も、これを維持していくことが困難であった。
林業以外、例えば農業などによって生活を維持できなくても、森林育成、林業によって生活を維持することは理論のうえでは、できないことはない。この場合、小規模林業から始める拡大再生産が実現されなければならないが、しかし、これは極めて困難である。
この原因の一つには、森林育成林業の長期性で、初期には資金や労力の投下だけであって、成木からの収入は、ずっと後になってからしか実現しないからである。
彼等は苦労した植林地を手放して伐出業を兼ねた山守層のもとに従属しなければならなかった。
山守の育林技術
造林適地
平坦地は不適とし、砂礫地や乾燥地も不適としている。
深山の谷川深く、流れが、なだらかな地で、日中2~3時間ほどの間、日がよく当たり、それ以外は日陰で、雑木があり、土は始終しめやかで、谷の底あたりには水分を好む草の多い、しんしんとしたところがよいといわれている。
植栽方法
一鍬植えは苗の根を乾かさないためでもあろうが、人件費を浮かせるのに関係あると思う。
植え付け本数
多くの場合ha当たり18,000本植えである。
以上のように植えつけまでの過程を見ると、適地適木ということを重視しており、地形、方位、陰陽、地味などにも深い注意が払われている。
下刈(とりわけ特殊なことはない)
ひも打ち修理
植えてから7~8年目ころ、裾枝払いをする。林内へ入りやすく、また除伐のときの選木がしやすいために行った。
除伐
植えた木が、火吹き竹ぐらい(目通り直径が6cmくらい)になると、その中で悪い木を選んで間引く心で抜き伐りをした。
さらに「初めより、あらく植えたるは、いがみできるなり」として密植の必要性を説いている。現在は植えて9年目頃から、植えつけ本数の0~20%を除伐する。
間伐
吉野の間伐は、年輪密度の均一な完満材の成育を兼ねたものであった。明治22年ごろの例として、1ha当 たりの間伐開始時の立木本数が9,000本で、皆伐時は470本(スギ330本、ヒノキ140本)と、なっている。(伐期は120年)
15年生を初めとする13回の間伐で9000本のうち、 約95%が中間に収穫されている。
間伐木の選木は、発育の強すぎるものと劣ったものとを選んで伐り、もっぱら成長が整うようにし、良質材生産を計るとともに、早く、そして大きく元利の回収を目指すものであって、第一回の間伐で、すでに第二回、第三回の林冠を予想し、スギに好ましくない急激な林冠の疎開を防ぐために間伐の回数を多くした。
なお、参考までに12,000本/ha植えで、間伐を14回行った例で、間伐材の収入(後価計算)と主伐材の収入を比較してみると、約22:1の割合となった (伐木110年)。
このように間伐は密植と絡む吉野林業の粋であり、間伐の仕方で、その後の間伐材や主伐材に、従って収入(山守の収入にも直接かかわる)に大きな影響を与えるものであり、山守は自分の経験知恵のすべてを出しきり、全力を投入して間伐木の選木などの仕事に励んだ。それによって森林所有者、山守の双方に利益をもたらした。
山守の配慮が、見事な間伐技術となって表れてくるのである。徳川時代に、その基本を確立した間伐技術は明治に入って更に磨きがかかっていったのである。
以上が吉野林業のあらましである。ここから「林業とは、どんなものか」が分かってくる。
まとめ
吉野林業地の森林育成林業史をまとめてみると
1、「山つくり」は自然条件をよく考えて行うもの。
2、「山つくり」は長期性の業だから農業その他の収入によって生活を維持 しながら営なむものである。
3、間伐(択伐) による中間収穫により、早く、大きく元利の回収を行わなければならない。
以上の、ほぼ三つである。これを戦後から今日まで の森林育成林の過程と対照してみることにする。
戦後の森林育成林業と較べてみると
1、の「山づくりは自然条件をよく考えて行うもの」 について
林業は自然の力によるものだから自然の仕組みと掟に基づいた施業でなくてはならない。「適地適木」で樹種によって各地方には海抜高の範囲があり、そのなかでもある程度以上の地位に恵まれたところに限られ、 海抜高の高い山頂、稜線、風衝地、表土の薄い岩石地などでは成立が難しいが、成立する適地をはるかに超え、膨大な人工林を造成してしまったことが今日、森林育成林業の破綻だけでなく、自然環境保全の立場から批判を招く一因になった。
2、の「森林育成林業は農業その他の収入によって生活を維持しながら行うもの」について(小規模林家育林業の挫折)
植林するときは、そのときの家の事情から「これぐらいは植林できるだろう...」と植林しても成木による収入は、ずっと後になり、家の事情も年月の経過によって変化し息切れしてくる。不時の出費もあるもので、どうにもならず外部資本から借りるが、当然返済できずに苦労した植林地を手放すことになって挫折した。
今日は材価の低迷が長く続き、収支の均衡がとれず複合経営でなければ生活は勿論のこと保育管理もでき ない。仕事によっては山から遠く離れたところに居住しなければならないものもある。財産の均等相続制に よる林地細分化の進行、農林金融公庫造林資金償還、後継者問題など戦前と挫折に至る条件は形は違うが本 質は変わらないのでは?。
3、の「間伐、択伐による中間収穫により、早く大きく元利の回収をしなければならない」について。
昔から「山三分」といわれている。つまり森林育成林業の利回りは年3%と相場が決まっている。
農林漁業金融公庫の造林資金は長期貸し付けで、据置き期間も長く、その利率は市中金利よりも低く (3%/年)、しかも固定制で大変有難い制度であるが 森林育成林業の本質からみると、利回り3%の森林育成に3%(森林組合からの転貸では3.5%)の利息を支払っていることになる。ということは、造林資金を借りて森林育成林業をすれば林家は、その一生を森林の造成、育成と、その破壊(皆伐による元本の返済)に苦労しただけで誠に哀れというほかはない(死ねば容赦なく相続税まで徴収される)。
利回りによる収益を重視した前記高利貸資本も山林地主も金利で挫折した小規模森林育成林家も「金利の恐ろしさ」が身に沁みていたので中間収穫により、早く大きく元利の回収をしなければならなかった。そのため経営を左右する間伐、択伐技術に経験、知恵のすべてを投入したのである。昔も今も変わらない。
間伐、択伐木の選木
常に生き生きとした健全な森林でなければ上記の目的が達成できない。
実生苗を植林した森林は、いろいろな遺伝子をもった立木が混在し、成熟期も生命力もそれぞれ異なる。生命力(成長力)が弱った木を除かなければ森林全体の生命力が漸次弱まり森林育成林業本来の目的を達成することはできなくなるだけでなく森林の持つ環境のための機能を十分に発揮させてやることもできなくなる。間伐木の選木は経営、環境を左右する大事な仕事である。
どんなもの、どんなことでも内部の状態(そのものの持つもの。ここでは、その木が持つ生命力)は必ず外部に表れるもので、立木は根株の形と色に表れる(梢は見難い)もので、根株が直で力強く、明るい色の木は生命力が盛んで、その反対の木は太くても間伐、択伐の対象木にしている。立木間隔などは、あまり気にしていない。良質木の旺盛な生命力を持続させて間伐周期を短くし、早く大きく元利を回収することが森林育成林業の原則である。
良質材生産
林地面積、育成年数が同じなら何を多く作り、利回りを多くするかが当然問題になる。材価だけではなく、そのコストも計算に入れての中間収穫額で、今日、木材価格が暴落し、良質材も例外ではないが、それでも一般材と良質材の価格比は1:6で昔とあまり変わらない。伐出コストは価格と相対的に低下するから1/ 6で、昔の人は、よく考えたものだと、つくづく関心する。
「建築様式も変わって無節の良質材なんて...」との声も聞かれるが、「これしかない!」と思っている。仮に将来、一般材と価格比が変わらないようになっても人々は、よい品を選ぶだろう。
過去、現在を通じての、まとめ
歴史は過去に実際にあったことで、形などは少し変わっても、その本質は変わらない。「今日には通用しない」と考えるのは大いに驕りで、私たち人間は懲りもせず同じ誤りをするものだと、つくづく思う。
時代とか文化などが変わっても、昔から現在も残っているものが何と言っても本物で、約300年にわたる森林育成林業の経営や、山守が自分の経験知恵の、ありったけを絞って作り上げた間伐などの知恵を引き継いで行くのが林業後継者であろう。
(大橋式作業道実践指導者)